「使っていないんです。家の半分を」
女は、そう言った。
遥は手元の出生図から顔を上げた。
「半分?」
「はい。西側です」
「部屋が使えない?」
「使おうと思えば使えます」
女は少し考えてから言い直した。
「でも、使いたくないんです」
彼方がテーブルの上でカードを切る手を止めた。
三人の中で、こういう話に最初に反応するのは、たいてい灯だった。
ところが灯は何も言わない。
窓の外を見ている。
遥が尋ねた。
「いつからですか」
「住み始めて半年くらいしてからです」
「家を買ったのは?」
「三年前です」
「中古住宅?」
「病院です」
彼方の手が、また止まった。
「病院?」
「昔の個人病院です。診療所というより、入院もできるところだったそうです。ずっと空き家だったんですけど、安かったので」
「どのくらい安かったんですか」
女が金額を言った。
彼方は目を丸くした。
「それは安い」
遥も頷いた。
土地だけを考えても安い。
「主人が内装関係の仕事をしているので、自分たちで直せばいいって。広いし、子供にも一部屋ずつやれるし」
「いい買い物だった」
遥が言った。
「最初はそう思いました」
女は笑った。
その笑い方で、遥は続きを急がせなかった。
しばらくして女が言った。
「音がするんです」
彼方がカードを置いた。
「どんな?」
「歩く音とか。戸を開ける音とか。あと、誰もいない部屋で物が落ちたり」
「家族全員が?」
「主人は、古い建物だからって」
「お子さんは?」
「西側には行きません」
灯が初めて女を見た。
「あなたは?」
「私も、できれば」
「じゃあ行かなきゃいい」
灯は言った。
あまりにも簡単だったので、女は一瞬、答えられなかった。
彼方が灯を見る。
「それで済むなら相談に来ないでしょう」
「でも、行ってないんでしょ」
「そうです」
女は言った。
「今は東側だけで暮らしています」
「困ってる?」
灯が聞いた。
「困ってますよ。せっかく広い家を買ったのに、半分しか使えないんですから」
「でも暮らせてる」
女は黙った。
遥は出生図に目を戻した。
相談を受けていると、時々、話の中に二つの問題が混ざる。
起きている問題と、起きている問題をどう評価するかという問題だ。
この女の場合、家の西側で何かが起きるという問題がある。
もう一つは、家を全部使えないことを「失敗」と考えていることだった。
「引っ越しは考えました?」
遥が尋ねた。
「無理です」
返事は早かった。
「ローンがあります。あの家だから買えたんです。今の収入じゃ、もう一軒なんて絶対に無理です」
「売却は?」
「病院だったことも、近所ではみんな知ってます。買った値段で売れるとも思えません。それに売れたとしても、次に住むところが……」
そこで話は終わった。
遥には珍しくない話だった。
辞めたいが、辞めれば食えない仕事。
別れたいが、別れれば住むところがない夫婦。
介護から逃げたいが、自分が逃げれば代わりがいない家庭。
返せないからこそ働き続けなければならない借金。
人間は、自由だから相談に来るのではない。
自由がなくなったときに来る。
選択肢が三つある人間は、自分で選べる。
二つなら迷う。
一つになると、占い師のところへ来る。
「カード、出たよ」
彼方が言った。
三枚が並んでいた。
《塔》。
《ペンタクルの四》。
そして、《ソードの六》。
「嫌な並び」
遥が言った。
「そう?」
彼方は塔を指で軽く叩いた。
「私は、そうでもないと思う」
「塔ですよね」
女が言った。
「知ってます?」
「少しだけ。怖いカードですよね」
「怖く描いてあるからね」
彼方は笑った。
「でも今日、大事なのはこっち」
ペンタクルの四だった。
「持ってるものを離せないカード?」
「そう読むこともある。でも、離さないから生き延びられることだってある」
女はカードを見つめた。
「家を手放すな、ということですか」
「そこまでは言ってない」
彼方はすぐに否定した。
「カードに不動産売買の責任まで負わせないで」
女が初めて少し笑った。
遥も笑った。
灯だけは笑わなかった。
「西側って、どこまで?」
灯が聞いた。
女が家の間取りを説明した。
旧診察室。
処置室。
廊下。
二階には元の病室が四つ。
そのうち二部屋は物置にしていた。
「階段は?」
「使います」
「台所は?」
「東です」
「風呂は?」
「東です」
「寝るところは?」
「東側」
灯はしばらく考えていた。
霊がいるとも、いないとも言わなかった。
やがて言った。
「だったら、今のままでいいんじゃない」
「でも……」
「家って全部使わなきゃいけないの?」
女は答えなかった。
「百坪買ったら百坪全部使わなきゃ損なの?」
「そういう問題じゃ……」
「そういう問題だよ」
珍しく灯が強く言った。
彼方が灯を見る。
遥は止めなかった。
「あなた、西側を使わなくなってから、何かあった?」
「何かって?」
「怪我したとか。眠れないとか。子供がおかしくなったとか」
「いえ」
「じゃあ、使わなきゃいい」
「でも、逃げているみたいで」
「逃げればいいじゃん」
灯は言った。
女が灯を見た。
「逃げちゃいけないって、誰が決めたの?」
部屋が静かになった。
彼方が三枚目のカードを指した。
《ソードの六》。
「これ、移動のカードなんです」
女の顔が曇った。
「やっぱり引っ越し……」
「違う違う」
彼方が笑った。
「人って『移動』って言われると、すぐ百キロ動こうとするのよ」
遥が口を挟んだ。
「一メートルでも移動です」
「そういうこと」
彼方はカードを女のほうへ向けた。
「あなた、もう移動してるんじゃない?」
女はしばらくカードを見ていた。
やがて、小さく言った。
「東側に」
「うん」
遥は出生図を閉じた。
今日の星について話そうと思えば、いくらでも話せた。
土星のことも。
四室のことも。
この三年間のトランジットも。
けれど、それを全部説明する必要があるとは思わなかった。
占い師は、知っていることを全部喋る仕事ではない。
必要なものを、必要なだけ渡す仕事だ。
「しばらく、家を売ることは考えなくていいと思います」
遥が言った。
「星でも?」
「星では、今、大きく生活基盤を変えるより、維持を優先したほうがいい時期です」
「いつまでですか」
「それは後で具体的に見ます。ただ――」
遥は少し考えた。
「一つだけ、考え方を変えてください」
「はい」
「家を半分失ったと思わないこと」
女が顔を上げた。
「半分残ったと思ってください」
彼方が頷いた。
「それ、大きいね」
「同じじゃないですか」
女が言った。
「全然違います」
遥は答えた。
「人間は、固定されたらサンドバッグになるんです」
「サンドバッグ?」
「逃げられない場所に立って、同じところを何度も殴られる。仕事でも、家でも、人間関係でもそうです」
女は黙って聞いていた。
「だから大きく逃げられなくてもいい。半歩ずれればいいんです」
遥は指を少し動かした。
「半歩?」
「そう。半歩」
彼方が《ソードの六》を指した。
「もう、ずれてる」
女は三枚のカードを見た。
塔。
ペンタクルの四。
ソードの六。
壊れたもの。
手放せないもの。
そして、わずかな移動。
「じゃあ……住んでいていいんですか」
三人とも、すぐには答えなかった。
やがて灯が言った。
「私は西には行かない」
「灯」
彼方が呆れた。
「だって私は嫌だもん」
「そういう言い方する?」
「でも、東は別に嫌じゃない」
女が目を丸くした。
「本当ですか?」
「うん」
「じゃあ大丈夫なんですか?」
「知らない」
灯は平然と言った。
「私は神様じゃないから」
彼方が吹き出した。
遥も笑った。
女もつられて笑った。
三人の占い師のところへ来たからといって、人生が解決するわけではない。
借金は消えない。
給料も上がらない。
買ってしまった家が、新築に変わるわけでもない。
怪異が本当にあるのかどうかさえ、誰にも証明できない。
それでも女は帰るとき、来たときより少しだけ背筋を伸ばしていた。
玄関で靴を履きながら振り返った。
「先生」
「はい」
「東側だけなら、結構広いんです」
遥は笑った。
「でしょうね。元病院ですから」
女が帰ったあと、彼方がカードを片づけながら言った。
「灯。本当に西側、何かいるの?」
「知らない」
「またそれ」
「でも私なら行かない」
「だから、なんで?」
灯は少し考えた。
「嫌だから」
彼方が遥を見る。
「霊能って便利ね」
「占星術より説明が短くて済む」
遥が言った。
「タロットよりも」
「そこは否定しなさいよ」
三人は笑った。
テーブルの端には、まだ《ソードの六》が一枚だけ残っていた。
彼方がしまい忘れたカードだった。
遥はそれを拾い、彼方に渡した。
人間は、いつでも遠くへ逃げられるわけではない。
仕事を捨てられない。
家を捨てられない。
家族を捨てられない。
借金を捨てられない。
人生には、どうしても動かせないものがある。
けれど。
半歩なら、動けることがある。
半歩ずれれば、次の一発は外れる。
それで十分な夜もある。
