境界の市場 ――シャインマスカットタルト

店の入口には、その日の手書きの札が掛かっていた。

本日の季節のタルト シャインマスカット

開店と同時に注文が相次ぎ、昼を待たずして売り切れる。

「すみません、マスカットは売り切れです。」

それは昼過ぎになると、この店の決まり文句になる。

「じゃあ、フロマージュください。」

「ありがとうございます。」

厨房では煮込みの鍋が静かに湯気を立て、甘い焼き菓子の香りと
味噌の香りが同じ空間に溶け合っている。

店内では、もつ煮込み定食を夢中で頬張る作業着姿の客の隣で、
若い女性がタルトフロマージュをゆっくり味わっていた。

会社員の昼食も、親子の甘い時間も、常連客の食後のコーヒーも、
この店ではどれも等しく当たり前だ。

誰も不思議には思わない。

この店では、それが普通なのだから。

カウンターの端では、遥がコーヒーカップを両手で包み、
彼方がタルトを一口つついていた。灯は店内をぼんやり眺めながら、
季節が変わるたびに変わる店の空気を楽しんでいる。

そのときだった。

灯の視線が入口でぴたりと止まる。

「あっ……」

思わず漏れた声に、遥が顔を上げる。

「座敷童……」

灯は見えたものを、そのまま口にしてしまう。

悪気はない。ただ、隠すより先に言葉になってしまうだけだ。

遥は灯を見た。

たった一瞬。

それだけで十分だった。

「灯。」

その一言で灯ははっと口を押さえる。

遥は何事もなかったように立ち上がり、灯の肩へそっと手を添えた。

「行こう。茄子の間で話そう。」

その動きはあまりにも自然で、周囲の客は誰も気に留めない。

彼方もすぐに立ち上がると、店主へ軽く頭を下げた。

「すみません。ちょっと茄子の間、お借りします。」

店主は理由を尋ねなかった。

長年の付き合いの中で、聞かないことも信頼だと知っている。

「あいよ。」

ただ、それだけ答え、再び味噌汁をよそい始める。

三人はそのまま階段を上がり、二階の茄子の間へ消えていった。

一階には、いつもの時間が流れ続ける。

湯気の立つもつ煮込み定食。

皿の上で輝くタルトフロマージュ。

食器の触れ合う音。

コーヒーカップの小さな音。

誰も知らない。

今、二階では境界の出来事が始まろうとしていることを。

この店は、怪異を隠す場所ではない。

店の空気を守る場所なのだ。

相談者も、お腹を空かせた客も、甘いものを楽しみに来た人も、
誰もが安心して同じ時間を過ごせるように。

だから三人は、見えたものより先に、人を守る。

それが守秘義務であり、長年積み重ねてきた信頼であり、
彼らのプロとしての矜持だった。

茄子の間に入ると、灯はようやく息を吐いた。

「ごめん。また言っちゃった。」

「灯らしいよ。」

彼方が笑う。

「でも、一階で言うことじゃない。」

遥の口調は穏やかだった。

叱っているのではない。

店を守るために必要なことを伝えているだけだ。

灯は小さくうなずいた。

「うん。」

その返事を聞いて、遥は窓の外へ目を向ける。

市場を吹き抜ける風は、季節を少しずつ運んでいた。

遥は長いあいだ、多くの相談者と向き合ってきた。

占星術で人生全体の流れを見つめ、彼方はタロットで今踏み出せる半歩を探し、
灯は人には見えない縁や気配から思いもよらない半歩を見つけてきた。

三人とも同じことをしている。

相談者が、また動けるようになるきっかけを探しているのだ。

遥は静かにコーヒーを口へ運び、小さく笑った。

「結局ね。」

二人が顔を向ける。

「不運って、動けなくなることなんだと思う。」

それは占星術の理論ではなかった。

何十年も人の話を聞き続けて、最後に残った実感だった。

「だから、人生は半歩でいい。」

遥は続ける。

「大きく変わろうとすると、人は怖くなる。でも半歩なら動ける。半歩ずつ景色が変われば、それで十分なんだ。」

彼方は穏やかに笑う。

「だから僕は、その半歩をカードに聞く。」

灯も笑顔を取り戻す。

「私は、思ってもみなかった方向を見つける役。」

遥もうなずく。

「私は流れを見る。」

三人は互いの言葉を重ねることなく、それぞれの役割を知っている。

誰かの運命を決めるためではない。

誰かが、また自分の足で歩き始められるように。

市場の一階では、今日も誰かがもつ煮込み定食を食べ、誰かがタルトフロマージュを味わっている。

季節のシャインマスカットのタルトは、今日も昼には売り切れた。

そんな何気ない日常のすぐ上で、人と怪異が交わり、人生がほんの半歩だけ動き出す。

それが、この町の人々がまだ知らない、もう一つの市場。

――『境界の市場』だった。

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